みどりの鼓笛隊の歌

作詞  新宅 安二
作曲 小松  清

ぼくらのこの町 みんなの広場
夢があります あしたの夢が
虹もみえます 隅田のむこうに
たとえ雨でも あらしでも
若い芽をふく みんなの広場
ぼくたちみどりの みどりの鼓笛隊
げんきに育つ 大きく伸びる

青いお空は みんなの広場
雲がわきたつ あしたの雲が
ひばりさえずる 天使の舞
たとえきびしい 寒さでも
若い芽をふく みんなの広場
ぼくたちみどりの みどりの鼓笛隊
なかよく巣立つ 大きく伸びる

昭和四十年(一九六五年)七月、児童室に集まる子供たちを対象として、
彼らの活動の場を与え、健全な育成を図ることを目的として
「みどりの鼓笛隊」が結成された。
クラブ結成と同時に全日本鼓笛バンド連盟に加盟するなど
活動も本格的で、地域の小学校を通じて集まった六十名ほどの
子供たちは、毎週二回、 水曜日と土曜日にセンター内の図書室
や屋上で熱心に練習した。
楽器は笛、太鼓、シンバル、指揮棒などすべて浅草ライオンズ
クラブから寄贈され、近隣の台東区立田中小学校及び荒川区立
第四瑞光小学校も鼓笛隊の活動を支援した。



最初は楽器など手にしたことのない子供たちだったが、周囲の協力や援助、
全日本鼓笛バンド連盟事務局長の新宅安二氏らの献身的な指導により、
結成五か月後の「クリスマス子供のつどい」では、「若い力」「春の小川」
などの演奏を披露するまでに上達した。

練習の成果を発揮する機会として、年に何回か街中や公園をパレードして
歩いた。特に秋には大東京祭り、銀座祭り、体育の日、文化の日の式典など
たくさんの行事に参加して可憐な演奏を披露した。
活発な活動を続けていたみどりの鼓笛隊だったが、昭和五十年以降山谷地域に家族
連れの労働者が減りつづけると、次第に鼓笛隊の隊員の中から山谷の子どもが少なく
なり、荒川区を中心に各地域から集まってくるようになった。

そして、山谷地域の子どもは一人もいなくなってしまった。
こうした理由から、五十九年四月一日にみどりの鼓笛隊は東京都から荒川区へ移管され、
その「移杖式」が同年三月二十八日、荒川区役所のロビーで行われた。
こうして形を変えたみどりの鼓笛隊は、
現在も三十名〜四十名の子どもたちにより活動が続けられ、
主に荒川区主催の行事などで演奏を行っている。

平成十六年十一月荒川区教育委員会にお聞きしたところ、
平成九年に地域のお祭りでパレードを行った後のみどりの鼓笛隊の活動は
把握していないとのことでした。また、みどりの鼓笛隊を支援してくれた
荒川区立第四瑞光小学校は平成四年に休校となった。